私と、ウォーホル

私には、大事な絵があります。

 


 

実家はこじんまりとした、町のフレンチレストランを営んでいました。
父がシェフで、母がサービスをして。
たしか私が小学校二年生のときに開店したのだと思います。
そのお祝いとして、叔母が両親にその絵をプレゼントしてくれました。


白いキャンバスに黒いサインペンのようなもので大きなお花が描かれていて、
花瓶やお花の一部に、パステルカラーの水色やピンクや黄色の絵の具が塗られていて。輪郭に沿ってきちんと色が塗られているわけではなく、はみ出しているところもあれば、塗りきれていない場所もあって。
周囲の風景などはなく、それらだけがキャンバスに描かれている絵。
唯一、その絵について父から教わったことは、「めっちゃ高いんやぞ」でした。


小学生の私には、とても理解ができませんでした。
すごい絵や評価されている絵は、油絵のような色が沢山使われているもので、
自然の情景や、まるで人物がそこにいるかのような絵だと思っていたし、教科書に載っているのは大体そういうものでしたし。
それとは真逆の絵が評価されていて、高価だなんて。



「この絵の何がいいんだ?私でも描けるぞ」
そう思いながら、ずーーーっと見てた。
ただただ、ずーーーっと見てた。

自分の身長よりも大きな絵だったため、日々いろんな角度から見ていました。引いたり寄ったり見上げたり、椅子にのって真横から見たり、時には寝ころがって見たり。



そして小3か小4の頃、
学校の宿題で絵を描かなければいけませんでした。
私は絵を描くことが嫌いでした。理由は、「上手に描けないから」。
描きたいものもないし、上手く描けるものもないし、どうしたものかと悩んでいたとき、
「そうだ、あの絵を真似ればいいんだ!」とひらめいた。
画用紙を持って店に行き、とりあえず真似をした。


上手くいかない。全然上手に描けない。
…おかしい。多分何枚か描きました。
それでも全然上手に描けない。そこで気付いた
「この絵、……上手だ」。

小学生ながらに、その絵の絶妙なバランスの良さに気付きました。ただ眺めているときにはわからなかった均衡のようなものに触れ、絵の魅力の一端を知った気がしました。

しかし、そこからも題材は変えず、
絵と同様、中央に花瓶を置き、花を描いた。
数本の大きな花ではなく、いっぱいの小さい花を描いて、色を塗った。
絵具ではなく、色鉛筆で水色や黄色やピンクにお花を塗った。



イマイチだった。
上手でも、面白くもない、小学生が描いたって感じのつまらない絵。

そこから何故そうしたかは覚えていないけれど、針金のような細長い棒の先端に蝶々の絵を貼り付け、絵に穴を開け、差し込んだ。棒は絵の下まではみ出していて、下から棒を操作すれば、蝶々がお花の周りを飛んでいるように動かせる。気に入った。


今思えば、絵の領域を超えた工作だったかもしれませんが、そのまま提出しました。
みんなの絵と一緒にしばらく廊下に飾られたのち、
市か県の小学生の絵の展覧会に飾られ、佳作か何かを頂戴することとなりました。


もはや原型とは全く別物で、家族ですら「店に飾られている絵」から着想を得ているとはわからない。
けれど、当時の私は、"こういう花の絵"に需要があることを知りました。
以降、私はその絵に敬意をはらうようになりました。
そして大人になって、その絵の作者が、
アンディ・ウォーホルだということを知ります。

 

 





 

当時の自分を評価したいのは、単に「高い絵」として済ませなかったところ。
「高い=良い」ではなく、何が良くて、どうしてこの作品が評価されているのかに疑問を持ち、自分の感覚で絵に接触していったこと。

そして、父が、
"高い絵"としか説明しなかったことは、
結果として、私に最高の学びの機会を与えてくれました。
もしあの時、
「これはポップアートの巨匠の作品でね…」と説明をされていたら、【すごいもの】と受け入れ、自分で描いてみようとは思わなかったはずです。ましてや、蝶々を飛ばすだなんてしなかったはず。

 




 

記号化された価値

アンディ・ウォーホルは「名前が一人歩きしている」作家だと、揶揄されることもあります。
彼はあえて「シルクスクリーン」という機械的な手法を使い、サインすら他人に書かせることがあったそうです。「ウォーホルだから見る」という現象そのものが、彼が仕掛けた皮肉なアートの一部でもあります。



キャビアもまた、同じではないでしょうか。


「三ツ星レストランが提供しているキャビアだからおいしい」
「百貨店で販売されているキャビアだから良いもの」
それぞれから肩書きが外れたとき、果たして同じ評価がされるのか。
これらと横並びになったとき、私たちの扱うキャビアがどう評価されるのか、試してみたくなりました。


8月末に行ったイベントは、
まさに「記号化された価値」への抵抗と挑戦でした。

イベント内で提供したキャビアは、
・マダムで一番お求め頂きやすい価格のキャビア
・全世界で60~70%のシェアを持つメーカーのキャビア
・全世界で最も実店舗数を多く持つ世界的有名キャビアブランドのキャビア

容器やラベルが評価に影響しないよう、
同一サイズの瓶に容れてのテイスティング。



提供の際に大事にしたことは、
【私が、良い悪いの評価をしないこと】
評価をするポイントをお伝えし、体験なさった皆様が、ノンラベルのキャビアと対峙したときにどう感じられるのか、皆さまに委ねることを心がけました。


どれを選んだっていい。
ご自身で判断されたのであれば、どれを選んだって正解です。
しかし、キャビアにいたっては他者の評価が採用されていることが実に多い。
だからこそ、
誰かの評価を確認したり、なぞるのではなく、「自分の心がどう動くのかを愉しむ」。
答えのない、贅沢な時間を提供したかった。


……といいつつも
「マダムのキャビアが断然おいしい」とお声をいただけたのも事実として、書き残したいと思います。♡♡♡

 




 


幼い私が絵の持つ魅力に触れられたのは、
「権威」と「実体」を切り離して見ていたからだと思っています。
だからこそ、単なる試食会のようなものではなく、
「凛」とした空気感の中、自分自身の感覚と対峙できるような
アートを味わうようにキャビアを咀嚼する。そんな「知的な静寂」を感じる美術館のような雰囲気で皆様をお迎えできるよう準備してまいりました。


 

当日はパネルを飾り、
お花を飾り、マダムのプロダクトたちを飾り、
そして、大事な絵も。
(勿論、作者や作品名は明かさず、ノンラベルを徹底して)




今回、改めてこの絵のすごさを知る体験をしました。
搬入時、なにもない会場にどんどんものが運び込まれ、空間を作りこんでいく中、
最後に登場したのが「絵」。
絵が適所につくまでは、それぞれの物が漂って、浮遊しているように見えていました。
しかし、素晴らしいインストーラーの手によって、適所に飾られた瞬間、実に不思議な感覚が走りました。
それぞれの物が席に着いたというか、最後のピースがハマったというか、
本当に不思議な感覚を抱きました。
それは私だけではなく、会場にいた相棒とも呼ぶべきスタッフも同じ感覚になったと言います。

 





「贅沢品という枠を超えた先にある味わい」
イベントを通して、それを一番味わったのは私だと思います。
力をお貸しくださった方々、時間を共にしてくださった皆様に、心から感謝を申し上げます。
有難うございました。

……会場の雰囲気や、おいでくださった皆様、当日力を貸してくれた方々は、もう本当に素敵で…
思い出すだけでうるうるしてきます。
肝心の私は、緊張しすぎて言いたいことの1割も伝えられていないポンコツぶりでした。。。
だからこそ、より周囲の支えの力強さを実感できた、とんでもなく有り難い機会でした。
皆様、本当に有り難うございました♡



私に関しては、
少々武者修行が必要ですね。
さて、次はどんなことをしようかな







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